バスルームから出たヴィンセントは長く重々しい溜息を吐き出した。
見やったベッドの上では、予想通りにユフィが転がってうたたねをしている。戸口で追い返されないよう、わざわざヴィンセントのシャワー中を狙って来たのだろう。彼女にとってこの部屋程度の鍵は造作もない。
ユフィも自分に割り当てられた部屋でシャワーを済ませたとみえ、スーツから見慣れた雰囲気の私服に変わっていた。シーツの上に大胆に投げ出された健康的な肢体はもはや少女とは呼べまい。この数年で、彼女は女性として見事に羽化しつつある。――内面の方はともかくとして。
ヴィンセントはまた溜息をつき、眉根を寄せた渋面のままベッドの傍に立った。
「ユフィ、起きろ」
「んー」
以前であれば遠慮なしに掴んで放り出していたところだが、ヴィンセントは彼女に触れるのを無意識にためらった。
ユフィの輝かしい成長ぶりは、時を止めていたかのようなヴィンセントの心境にも変化をもたらしていた。いつの間にか、ユフィを一人の女性として目で追うようになっていたのだ。
その自覚を得たときヴィンセントはまず愕然とし、すぐさまその感情を自分一人の胸だけにしまっておくことを誓った。
ユフィにとってのヴィンセントは”旅の仲間”だ。だからこそユフィはこうして無防備に眠ったりもできる。それは己に許された最上の評価だとヴィンセントは承知していた。それ以上を望むつもりなどない。
「ユフィ」
声をかけども返ってくるのは寝ぼけた呻きだけだ。仕方なく、肩でも揺さぶろうと伸ばした手を――掴まれた。
「ユフィ……っ!」
寝がえりに巻き込むようにして腕を強く引かれ、体勢が崩れる。
ユフィを圧し潰すのはなんとか回避したものの、自分の真下でぱちりと目を瞬かせた彼女の顔があまりに近く、ヴィンセントは息を呑んだ。
「どういうつもりだ」
「ゴメンゴメン、寝ぼけちゃった」
えへ、と笑いでごまかそうとするユフィは、しかしヴィンセントの腕を捕らえたままだ。
「離せ」
「そんな怒んなくても」
「……怒っていない。離してくれ」
ユフィの体温がじわりと沁みてくる。
「そんなに……イヤだった?」
ショックを受けたような、そんな顔をしないで欲しかった。むしろ嫌でないから困るのだが、それは口が裂けても言えない言葉だ。
ヴィンセントはつとめてやんわりと腕を振りほどき、身を起こした。ベッドの端に座りなおすとユフィも起き上がり、ヴィンセントの顔色を窺うようににじり寄ってくる。
ユフィにとっては無邪気ないたずらに過ぎないのだろうが、ヴィンセントとしては忍耐力を試されている。たまったものではない。ましてや彼女が他の男へ同様のことを仕掛ける可能性など、考えるだけで虫唾が走った。
「ユフィ」
「ふぇっ?!」
真っ向からユフィの顔を見つめ、ヴィンセントはため息とともに口を開いた。
「この際だから言っておく。男というのは、女性が思うよりもはるかに度し難い生き物だ。そこに女性が居るというだけで、触れたい抱きたいといった不埒な連想に至る者など全く珍しくない。ましてや好意を持つ相手の方から触れてきたとなれば、欲を抱かない方が難しい。人間は現状を都合のいいように解釈してしまうものだからな。実際に手を出すか否かは個人の良識の差でしかないし、そこに男から見て誘いととれる要素が一つでもあれば、良識など無いものと同じだ」
「……、えっ」
あっけにとられた顔でユフィが息を呑む。内容が内容だけに言い方が回りくどくなってしまった自覚はあるものの、大意は伝わるだろう。もう引き返せはしない。
これでユフィが自衛を覚えてくれるのなら、これから先ヴィンセントが延々避けられようが罵られようが安いものだ。
「――意味がわかるか?」
「えっ、え? ヴィンセント、も?」
「私は男でないとでも思っていたか」
「ち違っ、いや、ちがくて」
ユフィの顔がみるみるうちに真っ赤になっていく。かわいいものだ、と場違いなことを思う。
「お前にとって、あの旅の仲間は男であろうが安全という認識なのだろうな。それほどに信用してくれるのは光栄なことだが」
「ひゃあっ」
ヴィンセントはユフィの耳元に手を差し込み、彼女の顔を引き寄せた。ほとんど口づけ寸前の距離で、これが最後の機会だろうと名残惜しくその顔を眺める。
「お前のように美しく魅力的な女にこうも気安くされては、男からは据え膳そのものとしか見えん。無論お前の力量を見縊るわけではないが、私の言う意味がわかるなら少しは自覚し」
「ちがーう!」
ガンッ!と酷い衝撃をくらってヴィンセントは仰け反った。目の前に火花が散る、とはこういうことを言うのだろう。ユフィが零距離で頭突きしてきたらしいと気付けたのは、目の前で涙目の彼女が額を押さえていたからだ。
「なっ、なん、なんだよもー! アタシ、アタシてっきりヴィンセントってそういうのめちゃくちゃ鈍いのか、もしかして性欲全然ないのかもとか思ってた! 違うんじゃん! 良かったああ!」
手痛い攻撃をしておきながら、ユフィは今度は何やら叫びつつヴィンセントに抱きついてくる。
離れてもらうための話をしていたはずがこの状況は何なのか、ヴィンセントは展開について行けないままだ。胸元にぐりぐりと頭を押し付けてくるユフィをどうしていいものかわからず、身の置き場がない。
「ごめんヴィンセント、アタシが卑怯だった。ちゃんと……こ、告白してから、やるべきだった。こういうの」
ユフィはヴィンセントを見上げた。うるんだ瞳がきらきらと輝いている。耳まで赤いがその表情はなぜなのか心底嬉しそうに笑っていて、ヴィンセントは心を激しく揺さぶられたような衝撃をおぼえた。
「でもほら、わかってよ! アタシにだって怖いものはあんの! アンタのことずっと好きだって、言っちゃってから、断られたら、さすがのアタシも今までみたいなフリで絡みに行けないよ……。それだけ、めちゃくちゃ怖かった。でもさぁ! 違うんじゃん!」
高揚しきったユフィの言葉は留まるところを知らず、先程からうまく働かないでいるヴィンセントの脳内を勢い任せに殴りつけては去っていく。
「……なに、がだ」
「アンタたぶん勘違いしてるから! アタシは、アタシの方が先にアンタのこと好きになったんだからね! アタシにとってヴィンセントはずっと男だったし、ずっと仲間以上になりたかった! ふ、フツーはさぁ、こんな若くて魅力的な女の子に据え膳で迫られたらそれなりになんかあるもんでしょ! アンタ眉一つ動かさないし、ほら、昔のイロイロもあったから……恋愛とかできるのか、心配で」
「……私は、迫られていたのか?」
「ほらあ、そんなこと言う! でもゼンゼン効果がなかったわけじゃないみたいで安心しちゃったよ。ちょーっと思ったよりも斜め上の反応だったけど」
つまり、ヴィンセントに対するユフィの、ひときわ遠慮がなくスキンシップ過剰な長年の態度は意図的なものだったのだ。それが元タークスであるヴィンセントにとってはハニートラップと呼べる基準にも達していなかったことはさておき、何の因果か運よく効果は出た。
いや、きっと本当は知っていた。
成熟してゆくユフィがヴィンセントの前でだけ無邪気な子供のようにふるまっていること。それを見て見ぬふりしていたのは、それが彼女からヴィンセントに対する安心感と信頼のあかしだと思えていたからだ。
心地よいぬるま湯のような関係が、一歩踏み出すことで壊れるのが恐ろしかった。――お互いにそうだったのだと、ユフィは言う。
「……まるでもう断られる心配がないような口ぶりだが」
「ないでしょ?! 好意があるってアンタさっき言ったじゃん!」
「あれは、一般論で」
「アタシみたいな魅力的な女に迫られたら据え膳って言った!」
「一般論」
「何を言っても無駄でーす。さっきからしっかりアタシの腰抱いて、そんな顔して見つめてて。その気がないはず、ないでしょ」
アタシにだってわかる、とユフィは言ってくすくす笑った。
見下ろせば確かに、行き場に困っていたはずのヴィンセントの両手はいまやしっかりとユフィを抱きしめている。自覚に伴う急な気恥ずかしさに襲われたものの、このあたたかさをどうしたって離せそうにない。
「……どんな顔だ?」
「ふふ。やさしーカオだよ。絶対アタシしか見たことないやつ」
「……そうか」
猫のように身をすり寄せてくるユフィの表情も、きっとヴィンセントしか見たことがないものだろう。喜びに満ちた、花開くような笑顔が、溢れんばかりの愛情を体現していた。
そんなユフィが今腕の中に居ることをなぜと自問しながら、ヴィンセントはひとときも目が離せないでいる。
「好き、好きだよ、ヴィンセント。ねぇ、アタシの恋人になって。それでゆくゆくはアタシと一緒に人生を歩いて欲しいな。どう?」
「正直なところどう考えてもすすめられんし、お前の異性の好みはどうかしているとも思う」
「ちょっとぉ!」
ヴィンセントは幾度目かのため息をついた。しかしその意味合いは今までと大きく変わっている。
「……手が届かないものだと。手を伸ばしてはいけないものだと思っていたんだ」
「アンタの腕の中にいるよ」
「本当に……いいのか。私は重いぞ。お前の足枷にしかなるまい」
「よく知ってる。アタシが浮ついてるからちょうどいいってもんでしょ。――ヴィンセント、はぐらかしてないでちゃんと言ってよ。アタシのこと……好き?」
それは今までヴィンセントが決して舌に乗せまいと思っていた言葉だった。だが、もう。
「……好き、だ」
「もうひと声!」
「お前が、私を望んでくれる限りは……共に居る」
「なんでそこで自信なさげになるかなあ。でも、よくできました!」
ごほうびと言わんばかりの満面の笑顔で、柔らかな唇が押し付けられる。
ヴィンセントはたまらず、その身体を強くかき抱いた。
