その日、シドはロケット村の自宅で一人の夕食を済ませたところだった。
有能なエンジニアである妻シエラは数日間の出張に出ている。特に珍しいことでもなかった。家事を切り盛りするシエラが不在の間、食事は村の上海亭で済ませるのがシドの常であったが、この日は前日から降り続いている大雨に、外に出る気も起こらなかっただけのことだ。
缶ビールと買い置きの適当なインスタント食品とで腹を膨らませたシドが、テレビのバラエティー番組を眺めながら暇にあかせてコーヒーでも淹れようかと思っていた時だ。
ごんっ、と玄関ドアの方から鈍い音がした。
シドはいぶかしげに眉を顰め、ドアの向こうの気配を探った。
何かが居る。それは確かだ。
息をひそめたシドが見守る前で、もう一度ドアが鈍い音を立てた。ノックというにはあまりにも無骨で力強く、しかしなぜだか遠慮がちにも聞こえるような、そんな音だ。
「……おう、今行く」
状況としてはどう考えても警戒すべきところなのだが、不思議とその気が起こらなかった。壁に立てかけてある槍を一瞥することすらなく、シドは首をひねりながらも玄関ドアの前に立った。チェーンを外し、鍵をあける。
ドアを開けた途端強くなる風雨の音。それを遮るかのようにぬっと棒立ちしている赤黒い影が室内からの光に照らし出され、シドは思わず息を呑んだ。
「ヴィンセント!」
頭のてっぺんからつま先まで余すところなく水を滴らせた赤マントの男が、無表情にじっとシドを見下ろしている。
「どうしたお前、一体……」
そう言いながら彼を招き入れようとしたシドは、端々から感じるその違和感に目を瞬いた。姿勢というか、気配というか。見た目は確かにヴィンセントなのに、なんだかまるで。
くしゅんっ、と見た目にそぐわないかわいらしいくしゃみに意識を引き戻されたシドは、次の瞬間その身をもって彼の正体を知ることとなった。
びしょびしょのヴィンセントはその場で何の遠慮もなくぶるぶると大きく身を震わせたのだ。重たく濡れた黒髪とマントから遠心力によって盛大に水滴が飛び散り、シドと玄関とを瞬く間にびしょぬれにする。それはまるっきり、洗われた大型犬の挙動だった。
「おわっバカ野郎! くそっお前、中身がヴィンセントじゃねぇな!!」
シドの怒鳴り声に、ヴィンセントはしまったと言わんばかりの無表情で動きを止めた。ヴィンセントの腕を掴んで中に引き入れたシドは、大慌てで元通りに玄関ドアを閉めると、身を翻してバスタオルを取りに走った。
「……さっきのを見るにガリアンビーストか? お前ぇ」
玄関で適当な踏み台に座らせたヴィンセントの顔と黒髪をわっしわっしと乱暴にバスタオルで拭きながら、シドは呟いた。ぐっしょりと濡れた赤いバンダナとマントはそのまま床に落としてある。一体どれほどの距離を走ってきたのか、中の黒服さえ濡れていないところなどない。全身をベルトで覆われたまるで拘束具のような服を眺めてシドはため息をついた。これは果たして普通に洗濯機に放り込んでいいものなのだろうか。
ヴィンセントは大人しくシドにされるがままだ。シドにとっては見慣れたはずのその整った顔は、例えるならばきょとんとでも言った風情で、無表情のままあちらこちらを見回している。今となっては、シドから見ればその中身がヴィンセントでないことは一目瞭然だった。なんと言うか、目が全く違うのだ。普段の彼の、真紅に金の虹彩が浮かぶ瞳にはぞっとするような凄みがあるものだが、今の彼は目玉のデザインこそ同じでもその迫力がない。代わりにあるのは映したものを吸い込むかのような、動物めいた底のなさだ。
寡黙なヴィンセントの雄弁な視線は、そこにはなかった。何の感情も浮かばない瞳は、さりとてそれが抜け落ちたという感じでもない。普段のヴィンセントがどれほど無表情であっても無感情には見えないのとは対照的だった。仮にこの中身がガリアンビーストなのだとすれば、恐らく感情に連動する表情という概念そのものを持っていないのだろう。獣の感情とは身体全体で表されるものだからだ。
ちゃぽちゃぽと水音までするブーツを脱がせ、玄関の端にひっくり返しておく。太腿のガンベルトを外すべく脇に屈みこんだ金髪の頭に、暇を持て余したらしきびしょぬれの皮手袋の指先が差し込まれてシドは悲鳴を上げた。
「冷てぇ! こら、イイコにしてろ!」
叫んだとたん、視界の端にきらりと光る鋭利なガントレットの爪先が目に入り、シドは一瞬身を強張らせた。物騒な左腕はだらりと床に向けられたまま、ぽたぽたと水滴を滴らせて床に水たまりを作っている。
人間に対してこの左手を使ってはこないあたり、このモンスターもいくらかは弁えているのか。それともシドという個人が特別に弁えられているのだろうか。ガリアンビーストにどの程度の知能があるのかなんてシドは今まで考えたことがなかったが、少なくともシドをシドだと見分け、宿主の仲間だと認識し、傷つけないようにしてはいることになる。
外したガンベルトとそこに納まったケルベロスの水気をぬぐい、ひとまず玄関脇のチェストの上に置いた。もっと一般的な自動小銃ならともかく、これの手入れはシドには無理だ。正気を取り戻したヴィンセントにやらせるしかない。それにしても当人の意識はどこへ行ってしまったのか。
シドが顔を上げると、ヴィンセントは次はこれだろうと言わんばかりにずいっと両手を突き出した。シドが思わずため息をつくと、相変わらずのきょとんとした顔で彼は首を傾げる。赤い瞳は臆せずにシドをじっと見つめてくる。まったくもってヴィンセントのする挙動ではない。
幾重にもベルトで止められた黒革のロンググローブ。そして雫を滴らせて光る鋭いガントレット。ようやく外し終わったそれらをも床に放り投げ、ついでにウエストのベルトも引き抜いておいて、シドはヴィンセントを立たせた。ぽたぽたと雫を滴らせながら大人しくシドに手を引かれる彼の違和感にそこでひとつ気づく。
異様に姿勢が悪いのだ。歩き方も普段の彼とは全く違い、明らかに二足歩行に慣れていない。変身したガリアンビーストの骨格のことを考えればさもありなんというところだった。ヴィンセントの身体には当然ながら尾もなく、どちらかと言えば四つ足めいたガリアンビーストからすればバランスが取れないのだろう。ナナキに二足歩行をさせているようなものだ。
「……おめーの方だって人間の免許なんざ持ってねぇってことか」
シドの呟きに、ヴィンセントは喉の奥でぐるると唸った。
バスルームで特に抵抗もなく素っ裸に剥かれたヴィンセントはシドによって頭のてっぺんから丸洗いされ、今はバスローブの上に毛布をかぶった格好でぬくぬくとソファに座りこんでいる。ガリアンビーストがシャワーやドライヤーを嫌がらないタイプだったのは正直助かった、と思いながらシドはその黒髪にせっせとドライヤーをかけていた。
「ったくよ、こんなサービス女にだってしてやったことねぇぞ」
ぶつくさ言いながら乾き具合を確かめていると、ヴィンセントがまた小さくくしゃみをした。
「んん?」
訝しく思ったシドが額に触れると、ヴィンセントは何を思ったのかその手にこてんと頭を預けてきた。本当にまるっきり犬のような仕草だ。その肌はシドが知るヴィンセントの体温としては規格外と言えるほどに温かい。だがそれが風呂上がりだからなのか、それとも中身がヴィンセントでないからなのかは、今のシドには判別できない。ただ可能性としてはあり得るな、とシドはその体温を心に刻み込んだ。すなわちヴィンセントが発熱を伴う体調不良を起こし、意識を失ったその身体をガリアンビーストが代わりにシドの元まで運んできた、という可能性だ。もっともその場合、体調不良の身体をガリアンビーストが元気に動かせる理由というものはよくわからないが。
ヴィンセントはすんすんと鼻を鳴らしながらシドの手に頭を押し付けている。それにしても完全に行動が動物のそれだ。敵意はなさそう、どころか人に――シドに、甘えてすらいるようだ。ガリアンビーストがシドを認めているのか、それともヴィンセントの本心がシドにはこれだけ許しているのか。おそらく真実が明かされることはないだろうが、どちらにせよシドとしては面映く、満更でもない現象だ。
シドはぽんとその黒髪を撫でると立ち上がった。
「そこで待ってろ」
玄関やバスルームでもそうだったが、身振りも交えてはっきり、ゆっくりとそう言えば、言葉はわからずとも一応意図は通じるらしい。大人しくしている彼を残してシドはドライヤーを片付け、キッチンへ回って二つのマグカップにインスタントのスープを作った。
「ほら、飲めるか」
片方をソファ傍のテーブルに置いてやると、どうやら食べ物だとは認識できたらしく興味を示す、が。
「うわっ、こら!」
これはシドがまずかった。ヒトの見た目に惑わされ、今のヴィンセントがほとんど手を使おうとしないことを失念していたのだ。ヴィンセントはソファに乗ったままテーブルの上へ、手ではなく頭を持っていった。ずるりと傾いだその身体を、シドは間一髪片手で首根っこを押さえて転がり落ちるのを阻止する。
「待てだ、待て!」
どことなく不服そうなヴィンセントをソファに置いて、シドはキッチンへととんぼがえりした。なんとか零さずに済んだマグから大き目のスープボウルに中身を移し、ついでにスプーンも持ってくる。
「口開けろ。あーんだ」
シドが隣に座って実演してやると、ヴィンセントは無表情のままぱかりと口を開けた。そこにスプーンを突っ込んでやると閉じた唇がむにむにとスープを咀嚼し、次を要求してまたぱかりと開く。
「自分のガキにだってしてやったことねぇぞ!」
まだいないのだから当然なのだが、シドは苦笑しながらそう言った。まったく天下のヴィンセント・ヴァレンタインがなんというザマだ。だがスープボウルに顔を突っ込むヴィンセントを目の当たりにするよりは、手づから給餌されるこの光景の方がどちらにとっても断然マシに違いない。
コイツが駆け込んできたのが俺のところで本当に良かった、とシドは心から天に感謝した。シエラの不在もヴィンセントにとっては僥倖だったろう。シエラは気にしないかもしれないが、もしこんな姿をシド以外に見られていたらヴィンセントは今後一生シドの家どころかエッジにも寄り付くまい。そんなのはだれも望むところではない。
そんなことを考えている間にスープボウルは空になっていた。どうやら腹がくちたらしいヴィンセントがもぞもぞと毛布を掻き合わせ、シドの膝を枕にして丸くなる。
「自由だな、お前はよ」
すっかり冷めてしまったマグカップをテーブルから取り上げ、口をつけながらシドは呟いた。
膝に散らばる黒髪を指で梳くと、応えるようにぐるぐると低い唸り声がした。
***
「……?」
眠りから覚めたヴィンセントは不思議そうに重い瞼を瞬いた。室内を満たすカーテン越しの陽光からして、どうやら昼頃のようだ。柔らかな枕と毛布の感触に暖かく身を包まれている。
目線を動かすと、その室内はいくらか見覚えのあるものだった。何度か泊まったことがある、シドの家の客間だ。それはわかるのだが、なぜ自分がこの部屋で寝ているのかをまったく思い出せない。思考は異様にぼんやりとしていた。布団の中でもぞもぞと手足を動かすと、張り付いたように乾いた喉がけほけほと咳を吐く。
粗っぽい足音がして、戸口からシドが顔を覗かせた。ヴィンセントの顔を見て驚いたように口を開く。
「起きたか。――ヴィンセント?」
「……ああ」
どうにも咳が収まらないヴィンセントがなんとか頷くと、シドはチェストの上に置いてあった水差しからコップに水を注ぎ、ヴィンセントに差し出した。身を起こしたヴィンセントはそれを受け取り、飲み干す。
人間性を取り戻したヴィンセントの動作に、シドは思わず安堵の息をつく。どうやらガリアンビーストは無事に引っ込んだらしい。
「ちょっと触るぞ」
そう言うと同時にシドはヴィンセントの額に掌を当てた。シエラが居ないので体温計の在処がわからないのだ。ヴィンセントが驚きに顔を顰めたが、無視される。滑らかな白い肌の温度は昨晩とさして変わらない、人並みの熱さだった。やはり発熱しているように思える。
「一応聞くけど、お前昨日のこと覚えてるか?」
「昨日? いや……何が、あった」
「……大雨ん中ウチの玄関先に立ってた」
とりあえず端的に発端だけを話し、シドは苦々しく顔をゆがめた。結果的に悪いことは何もなかった、どころかヴィンセントはおそらく自分の中の魔獣に助けられたわけだが、魔獣の中で最も扱いやすいはずのガリアンビーストに身体を乗っ取られていたという事実はヴィンセントを追い詰めるものだろう。当のガリアンビーストが叫ぶでも暴れるでもなくまるでよく懐いた大型犬のようでしかなかったとしても、おそらく何の慰めにもなりはしまい。
「詳しく聞きたかったら後で話してやる。とりあえずお前は、今日はそのまま養生してろ。具合が悪いことくれぇ自分でもわかんだろ。お前のいつもの体温からしたらけっこう高熱だぞ」
食えそうならなんか持ってきてやる、と言ってシドはヴィンセントの手からコップを回収し、水差しの傍に置いた。
もの言いたげなヴィンセントを無理矢理布団に押し込み、シドは踵を返した。こう見えて忙しいのだ。ヴィンセントが食べられそうなら何か粥でも作ってやらなければならないし、ついでに自分の食事の用意もある。晴れたのでヴィンセントの服一式は洗濯して干してしまった。昨日ざっと水気をぬぐっただけの玄関先や廊下をきっちり掃除しておかなければならない。今日は突然休みを取ってしまったので、なんなら仕事の電話もかかってくる始末だ。フライトが入っていなかったのはまったく幸いだった。
