【その他IFなど】月を見ていた

 

「眠れないの?」

そう問いかけられ、ヴィンセントは座りこんだ木の根元からのろのろと顔を上げた。枝の間から射す満月の明るい光が、いつものように首を傾げたエアリスの微笑みをはっきりと浮かび上がらせている。
明らかに隠しきれていない足音から、彼女がついてきていることはわかっていた。ここは危険な夜の森だ。放っておいてほしかったが、今のヴィンセントにはわざわざ戻って彼女を追い払うほどの気力もなかったのだ。撒いてしまうなら簡単だったが、彼女が森の中で迷うかもしれない危険性を思えばそれは避けたかった。
ヴィンセントは返答の代わりにため息をつく。近づくな、放っておいてくれとよほど言いたかったが、彼女がもう退かないだろうこともわかっていた。胸の内で、頭の中で、いやもはや身体中で、制御できない熱がぐるぐると渦巻いている。言葉は出そうにも既に形にならず、喉から漏れるのは獣のような唸り声だった。自分が今ヒトの形を保てているのか、もうそれすらヴィンセントにはわからなかった。
きらきらと青白く輝く、月の光が具現化したかのような女性が、ヴィンセントに向かって両の腕を伸ばしてくる。あまりにも己とは属する世界の違うそれを見ていられず、ヴィンセントはぎゅっと瞼を閉じて顔を背けた。動けない彼のせめてもの抵抗だったが、彼女の方は意にも介さなかった。
ヴィンセントの頬に、こめかみに、冷たい指が触れる。女性らしいやわらかな手のひらがヴィンセントの頬の輪郭をそっと包み、震える瞼を撫でた。ひやりとしたその感触は確かに心地よく、砂漠で得たわずかな清水のごとくヴィンセントの内へ沁み透っていく。
強張っていた身体から、じわりと力が抜けた。

動かない――もう動けない彼に、エアリスはそっと触れていく。まるで雪山の遭難者を温めるかのように、しかしまったく逆の意図をもって。
きつく目を閉じて眉間に皺を寄せたヴィンセントの身体は、普段よりなお青白い肌色にもかかわらず触れると驚くほどに熱かった。エアリスの体格ではヴィンセントを抱き込むことなどできない。彼女は躊躇なくヴィンセントのマントを解くとその胸元へ潜り込み、彼が立てたままの片膝の上へ座るようにすっぽりと身体を収めた。投げ出された重い腕を自分に巻き付け、ヴィンセントの額を覆う赤い布を外して、その頭を抱きしめる。
古代種の末裔としてエアリスが持つ”聴く”能力は、ヴィンセントの内に共生する4体の異形のざわめきをもわずかながらだが捉えることができた。理屈はわからないなりに普段は保たれているそのバランスが、こうして不意に崩れかかっていることに気づけたのもそのためだ。
内から溢れだし、ヴィンセントの身体を崩してしまいそうな熱をエアリスは懸命に抱きとめる。古代種がかつて星を浄化していた一族だというのなら、ヴィンセントのこの熱をエアリスは浄化し、彼に戻すことができるはずだ。
彼のライフストリームは確かに特殊だった。違う魂の色が混ざり合った撚糸のようなその中に、ひとつ異様に密度が濃く星に近い流れがあることを、おそらくエアリスだけが知っている。
エアリスは声でヴィンセントの名を呼びながら、古代種の能力で”それ”に呼びかけた。混血であるがゆえの不確かな能力を、こんなときばかりは悔しく思う。どうかヴィンセントを壊さないでというただそれだけの祈りが、”それ”に届いているのかどうかもわからないまま、エアリスはひたすらにヴィンセントを抱きしめ、熱を帯びる彼の輪郭を撫でた。
手と身体だけでは到底足りない、そんな気持ちに駆られてエアリスはヴィンセントの額に唇を寄せる。するといくらか浅くなっていた眉間の皺がぎゅっと深くなり、突然の反応にエアリスは驚いて目を瞬いた。

「……よかった。意識、あるんだ」

なにも良くはない、と普段のヴィンセントなら返したかもしれない。だが今の彼は目を開けることすらできないようだ。自由の利かない――それどころか暴走の危険性まである身体を若い女性に抱きしめられているというこの事態を、ヴィンセントはおそらく心底歯がゆく思っているに違いない。
くす、とエアリスは笑う。彼に意識があるのなら、想定よりはましな状況だった。生来の前向きな精神が戻ってきたエアリスは、両手を届く限りに伸ばしてぽんぽんとヴィンセントの熱い身体を撫でた。

「だいじょうぶ。だいじょうぶだよ。ほら、ちゃんとヴィンセントはヴィンセントのままだから。カタチ、わかるでしょ?」

上手くいきそうなのだからいっそ委ねてほしい。そんな思いを言い聞かせるように、エアリスはヴィンセントの身体に触れていく。熱はじわじわとエアリスに流れ込んでいるが、やはり肌が直接触れ合った箇所の効率がいいように思えた。エアリスは束の間じっとヴィンセントを見下ろすと、彼の唯一ともいえる露出部位――つまりは顔を、指の背で一撫でした。

「ヴィンセントって、ほーんときれいな顔。肌もこんなにつるつるで、ニキビひとつなくって」

ヴィンセントの頬を、滑るようにエアリスの唇が触れた。柔らかなその感触が指ではないことに気づいたのだろうヴィンセントが、ひくりと震える。

「……うらやましい。ちょっと、いじめちゃおっかな」

桜色のつめたい唇が、血の気もないのに熱い唇へと押し付けられた。小さな舌先がぺろりと上唇を舐めては啄み、下唇に吸い付く。
ヴィンセントが受け入れも拒みもできないのをいいことに、エアリスは悪戯心の思うさまその唇を貪った。ふつふつととめどなく湧き上がってくる情欲の前に、もはや浄化など意識の外だ。ただ熱を分け合い、時折零れる彼の熱い吐息までをも深く飲み込んで。

「ヴィンセント。……ふふ、かーわいい」

目を閉じてしまえば溶け合って、その境目もわからなくなる。
やがて月が沈み星空が白んでも、同じ体温となった二人はなお抱き合っていた。

 

 

目を覚ましたエアリスは、まだヴィンセントの腕の中に居た。だがその身体はしっかりと赤いマントで包まれたうえで温めるように肩を抱かれており、ヴィンセントに乗り上げていたはずの体勢も無理のない楽なものに変えられている。どうやらヴィンセントは無事に身体の自由を取り戻したらしい。

「起きたか」
「うん」

ヴィンセントが緩めてくれたマントから抜け出し、エアリスはよろよろと立ち上がって大きく伸びをした。狭い腕の中に一晩中座り込んでいれば、いくら若くともさすがに堪える。
エアリスとは対照的に何の痛痒も見せずに立ち上がったヴィンセントは、ばさりと払ったマントを纏めて片腕に掛けた。辺りの木々を見回した視線が、明けたばかりと思しき空の色を見る。

「いま、何時?」
「わからん。だが朝食には間に合うだろう」
「よかった」

ヴィンセントを見上げ、エアリスはほっとしたように笑った。昨晩の彼女の同じ言葉が思い出され、ヴィンセントは思わずため息をつく。

「どしたの? 体調、まだ悪い?」
「いや、体調は問題ない。――君には、迷惑をかけてしまった」
「ヴィンセント。そういう時は”ありがとう”でいいの」
「――ありがとう。助かった」
「ふふ、どういたしまして」

朝の森は冷えている。歩み出そうとするエアリスに、ヴィンセントはマントを差し出した。だが彼女はヴィンセントの顔を見てにっこり笑うと、くるりと彼に背を向けて両腕を広げた。
ヴィンセントは目を瞬き、意図が合っていることを願いながらその華奢な肩にマントを掛けた。果たして彼女は、掛けられたマントの前を掻き合わせながらヴィンセントを振り返り、嬉しそうな顔を見せる。マントの隙間から差し出された手に対し、ヴィンセントに今度こそ迷いはなかった。手をつないで歩調を合わせ、二人並んでゆっくりと歩き始める。

「ヴィンセント。もしまた昨日みたいなこと、あったら。次は最初から頼って、ね?」
「……善処する」
「だーめ! わたし以外は禁止!」
「……わかった。必ず君を呼ぶ」

そういう意味ではなかったが、と思いながらヴィンセントが返した言葉へ、エアリスは満足げに頷いた。そもそも、己の異形の身体を他人に預けるという選択肢自体がヴィンセントにとってはありえなかったものだ。たった一晩でヴィンセントの厭世的な思考をひっくり返した彼女は、自らの驚くべき功績に気づく様子もなく、朝の散歩を楽しんでいる。

「ね、ヴィンセント」
「どうし」

ぐい、と胸元を引っ張られ、エアリスの唇がヴィンセントのそれに触れた。

「昨日はちょっと、事故みたいだったでしょ。だから」

頬を染め、きらきらと目を輝かせて照れたように笑う彼女を、ヴィンセントはたまらず抱きしめ、その唇を塞いだ。

 

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