どうでもいい前提:
飲み会の集合予定時刻は夕方なのだが、ヴィンセントは別件で昼に顔を出したところ、ティファと子供たちが店内の掃除中だったのでそれを手伝っていた。クラウドは買い出し中。
本日のセブンスヘブンは定休日なので、飲み会の料理と飲み物は各自の持ち寄り。
***
「ね、ね。ヴィンセント。お願いがあるんだけど、聞いてくれる?」
マリンが、珍しくもじもじとした態度でヴィンセントを見上げてそう言った。彼女の手には箱型の鞄のような物が提げられている。
カウンターからティファがほほえましく見守る中、ヴィンセントは屈んでマリンと目線を合わせる。
「どうした」
「あのね、マニキュアを塗らせてほしいの」
「……誰が、誰にだ?」
「わたしが、ヴィンセントに」
マリンの小さな手が自身の胸を指し、次いでヴィンセントを指した。
ヴィンセントは真顔のまま数秒悩み、助けを求めて首だけでティファを振り返った。
「……ティファ?」
「今夢中なのよ、それ」
苦笑したティファが指さしたのは、マリンが提げている鞄だった。
「子供用のメイクキットなの。かなり本格的なセットよ。発売されたら大人気間違いなしだと思うわ」
「……リーブ絡みの試供品か」
「ご名答。絶対取り合いになっちゃうからまだお友達には見せない約束でね。だからどうしても、メイクできるのは家の中だけってことになっちゃって」
「マニキュア、難しいから。練習させてほしいの!」
鞄を抱きしめてマリンがヴィンセントに訴えた。見れば、その小さな手の小さな爪には淡いピンク色が塗られている。確かにあちこちはみ出た跡もあり、あまり上手いとは言えない。
ヴィンセントは思わず自分の手を見た。当たり前だが、マリンの手とは爪の大きさが段違いだ。
なるほど、確かに大人の爪に塗る方が簡単だろう。
「乾いたらシールみたいに剥がせるようになってるのよ。落とすのはすぐだから、良かったら少しだけ付き合ってあげてくれないかな」
「ヴィンセント、おねがい!」
このセブンスヘブンで、目を潤ませて見上げてくるマリンに勝てる男など居ない。
「……仕方ない」
「やったあ!」
飛び跳ねて喜ぶマリンにばれないよう、ヴィンセントは苦笑とともにため息をかみ殺した。
これが受難の始まりだとは、知る由もなく。
――1時間後。
セブンスヘブンのボックス席で、ヴィンセントは死んだ魚のような目をして諦観の極致にあった。
種々の化粧品が並ぶテーブルの向こうにはきゃっきゃと騒ぎながら上機嫌の女性二人。そしてその横で、困り果てた顔のデンゼルがおろおろとひたすらに狼狽えている。
「ヴィンセント、なあ、大丈夫?」
「……今、どうなってる」
「いや、あの、どうって言われるとすっごくきれいだけど……その、マリンとティファが、ごめん……」
縮こまるデンゼルはただ無力だっただけだ。何も悪くない。そもそもこのセブンスヘブンでマリンとティファのタッグに勝てる者など誰も居ない。
ヴィンセントは遠い目で自分の手を眺めた。骨ばった、紛うことなき男の手は、十指の爪がすべて濃い赤に彩られている。目立つほどはみ出した箇所もなく、こうして見るとマリンの腕前はさほど下手でもなかった。結局は塗るべき面積と筆の大きさの問題なのだろう。
この爪だけで終わるはずだったのだ、本当は。
真剣なマリンに手を取られて動けないヴィンセントの姿に、ティファが悪戯心を起こすまでは。
「……ティファ」
「あっごめんねヴィンセント。鏡見たいよね?」
これまでヴィンセントが見てきた中で最も楽しそうな様子かもしれないティファは、横に置かれた自分のメイクボックスから鏡を取り出し、テーブルに置いた。
そういう意味ではなかったが、さりとて問い直す気力もない。ヴィンセントは現実から逃げたがる重い睫毛をなんとか持ち上げて、横目にちらりと鏡を見た。
「ヴィンセント、すーっごくきれい!」
「そうね、やっぱり元がいいから、ちょっと色付けただけでも映えるのよね」
鏡に映っているのは物憂げに瞼を伏せ流し目をくれる、黒髪と赤い瞳の――女だ。
ティファによって顔中にパウダーをはたかれ、瞼にシャドーとラメを塗られ、睫毛を増やされ、頬に赤みを足されて唇に紅を引かれた結果だ。それは恐ろしいことに、ヴィンセント自身から見てもまあまあ女性の顔に見えた。ただしどう控えめに表現してもまず堅気ではない。
元々の作り物めいた顔立ちと白皙の肌、瞳に合わせてかボルドー系を使ったメイクに深い彫りと長い睫毛が影を落とす。さらには誤魔化しようがないほどに目が死んでいることまでが要らぬ相乗効果を発揮し、その仕上がりはあまりに退廃的であった。
まごうことなき夜の住人、でなければお伽話の女ヴァンパイアかラスボス系魔女だ。結い上げられた黒髪がほつれて額に掛かる様にさえ、妙な色気が漂う。
鏡から目を逸らし、肩幅を誤魔化すために巻かれた深いグリーンのストールを無意識に引き上げて顔を隠そうとしたヴィンセントは、マントとは違う感触に寸前で気づき手を離した。布に化粧品の色が移ると後が面倒なことくらいは彼にもわかる。
「……満足したか」
「「とーっても!」」
地を這うようなヴィンセントの声音を一切気にすることなく、マリンとティファは楽しげに唱和した。
「ならもう落とすぞ」
「ええー!」
抗議の声はマリンだけだ。さすがに、ティファはそこまで鬼ではない。
「そうね。残念だけどあと一時間もしたら他のみんなも来ちゃうわ。ヴィンセント、洗面所に――」
ティファが、マリンを手で宥めつつ立ち上がろうとした時だった。
「久しぶりだな! マリィィン!」
「父ちゃん!」
ドアベルが激しく打ち鳴らされ、大声を上げたバレットが歓喜をあらわに押し入ってきた。
久しぶりに会う大好きな父親の姿にマリンが歓声を上げ、同時にティファとデンゼルが慌てて人目からヴィンセントの姿を隠そうとする。が。
「……ヴィンセント、か?」
愛娘しか見えていないバレットの後ろから、大荷物を抱えて顔を覗かせたクラウドが、困惑顔でそう呟いた。
(中略)(この間にナナキが来てる)
「よお! シド様が来たぜい!」
豪快にドアベルを鳴らし、両手に大荷物を抱えて入ってきたシドは、次の瞬間驚愕に目を大きく見開きぐらりとよろめいた。
「シド、落とすな!」
咄嗟にヴィンセントが叫び、シドが危ういところで踏み止まる。素早く駆け寄ったクラウドが慌ててその荷物を引き受けた。それらも大量のテイクアウトの料理と飲み物だ。落とせば大変なことになっていた。
「お、おめぇ……」
シドは呆然と、視線で穴が開くかと思われるほど無遠慮に、ヴィンセントの顔を見つめている。嫌そうに眉を寄せたヴィンセントがメニュー表を掲げて顔を隠すと、シドは正気を取り戻したかのようにハッとして、どかどかと歩み寄ってきた。
「ヴィンス! おいコラ隠すな! クソッ、知ってたけどやっぱりめちゃくちゃ顔がいいなお前!」
「煩い」
「俺様があんなに頼んでも無碍にしたくせによ、ティファにならやらせんのかよ! ずりぃぞ!」
いや、全く正気ではなかった。興奮で割ととんでもないことを口走りながら、シドの視線はヴィンセントに固定されたままだ。
まあまあドン引きしている周囲をよそに、シドは力任せにヴィンセントの手からメニュー表を奪い取り、まじまじとその顔を覗き込む。
「……は〜、こんだけ目が死んでても絶世の美女じゃねえか。すげぇなお前」
「馬鹿は死んでも治らないと言うが、試してみるいい機会だな」
「お? やるなら腹上死にしてくれよな女王様。その顔でなら喜んで上に乗ってやるぜぇ?」
調子に乗ってニヤニヤ笑いながら近づいてきたシドの頭を、ヴィンセントは新しいメニュー表ですぱんっと引っ叩いた。テーブルの向こうからティファが手渡したものだ。
ヴィンセントの精神安定用抱き枕と化していたナナキがガードマンよろしく割り込んで身を起こし、シドに向かってグルルと唸る。
そのまま喧々諤々の小競り合いに突入する一人と一頭をよそに、ひそひそとティファが問うた。
「ねぇ、シドに……メイクさせてくれって言われたことがあるの?」
「この顔のつくりが好みに合致するのだそうだ」
「げ、あんた大丈夫だったのかそれ」
クラウドは自身の軍隊経験を思い出し遠い目になったが、ヴィンセントはけろりとした様子で答える。
「シドは男は範囲外だ。鬱陶しいがその手の心配はいらん。鬱陶しいが」
「二回言った」
「それはそうとして、腹が減ったな」
「あ、そろそろ用意しようか」
立ちあがろうとしたティファを、ヴィンセントはメニュー表を持ったままの手で制した。
いつのまにかナナキとくすぐり合いに発展していたシドに顔を向ける。
「シド」
「ああ!?」
「腹が減ったな、あんた何を買ってきてくれたんだ?」
そう言ってヴィンセントはかすかに首を傾げ、微笑んだ。
長い睫毛に縁取られた煌めく紅玉が柔らかく細められ、紅い唇が妖しく優美な弧を描く。
普段のヴィンセントが見せる顔では決してない。まるで一輪の薔薇が華やかに綻ぶような、それは色香の匂いたつ“美女”の微笑みだった。
その瞬間を目撃した全員が目を瞠り、ごくりと息を呑んだ。
「……っクソ、ありがとうよ! そこで待ってろ!」
一瞬で顔を真っ赤にしたシドが、放置されていた荷物の元へずんずんと戻って行く。それを見送るヴィンセントは、たった今の微笑みが嘘のようにいつもの無表情だ。そして目は死んでいる。
「……ヴィンセント、あんたそんな器用なこと出来たのか」
やはり赤面したクラウドが感嘆の声で言い、ティファもこくこくと頷いた。
ふんと鼻を鳴らしたヴィンセントは、自分を守ってくれたナナキを労うように撫でると、首元からストールを外しながら立ち上がった。
「もう落として構わないな」
「あ、うん。その、ごめんね?」
ティファも慌てて席を立ち、ヴィンセントを洗面所へと案内しようとする。
「おい、ユフィに見せてやら――だぁっ?!」
余計なひと言を挟んだバレットの顔面にはブーメランのごとくメニュー表が投げつけられガツンと硬い音を立てた。洗面所へと消える二人を見送ったクラウドが、真顔でバレットに注意する。
「バレット、絶対ユフィには言うなよ。デンゼル、マリンもだ」
「わーってるよ」
「わかった」
「うん……」
角がヒットした顔面を押さえてきまり悪く応じるバレットと、真剣な顔でしっかりと頷くデンゼル。対してひとり不服そうなマリンにクラウドは屈んで目を合わせ、再度繰り返す。
「ヴィンセントはユフィに知られたくないんだ。あれはマリンの力作だったかもしれないが、マリンはお願いしてやらせてもらった立場だろう。この場合はヴィンセントの意思が優先だ。わかるな?」
「……はぁい」
