ヴィンセントがその身を変じた四体目の異形は、皮膜の翼を持つ悪魔の姿をしていた。
宙に羽ばたいた悪魔が咆哮を上げると、それは凄まじい衝撃波となって敵の群れをなぎ倒す。
シドは槍を握りしめたままその光景に、ただ呆然と見惚れていた。
***
岩壁に口を開けた浅い洞窟の中には焚火の跡があった。これ幸いと辺りの枯れ木をかき集めたシドは、PHSでの連絡を済ませてから適当な石に座って火口に火を点けた。日が暮れるまでにまだ時間はあるが、どのみち今日はここから動けそうにない。
火を安定させ簡単な野営の準備を整えると、シドは奥に寝かせていた男の身体を火の傍へと引き寄せる。
自らのマントでぐるぐる巻きにされているヴィンセントはいまだ目覚める様子がなかった。彼は新しいリミット技でモンスターを殲滅した直後、人の姿に戻ると同時に意識を失って倒れたのだ。
見た目には傷の一つも残っておらず、呼吸も正常だ。だがレイズもエスナも効果を発揮しない。ヴィンセントがこんな状態に陥るのは、シドの知る限り初めてのことだった。
ヴィンセントの身体については本人ですら、わからないことばかりなのだという。
シドは焚火を掻き立て、携帯用の小さな鍋に水を入れて火にかけた。槍を抱えたまま炎を見つめる脳裏にくり返しよぎるのは、ヴィンセントが倒れるきっかけとなった先程の光景だ。
――地に倒れたモンスターの群れ。
シドが息を呑むその目の前で、それを為した異形の悪魔は中空でその皮膜の翼を優雅に羽ばたかせながら、振り返った。
そして。
その姿が、翠の淡い光にほどかれるようにしてひとのかたちを取り戻していく。
最後に大きな翼がヴィンセントを包んだかと思うとばさりと赤いマントに変わり、金属の爪先がふわりと地面に降り立った。
黄金色の瞳を光らせたヴィンセントはその一瞬、確かにシドを見て笑ったのだ。
次の瞬間にはくずおれ、膝から地面に倒れ込んだヴィンセントにはもう、意識はなかった。
あれは、今までのとは違う。
それは何の根拠もないシドの勘だったが、おそらく外れてはいないだろう。
ガリアンビースト、ヘルマスカー、デスギガス。ヴィンセントを宿主とするモンスターたちの行動原理は単純だ。宿主の――すなわち己の生命の危機に対し、視界内の敵を全力で排除する。戦い方もモンスターそのものであり、連携や戦略といった要素は見受けられない。
だがヴィンセントらしからぬ顔で笑ってみせたあの悪魔には、おそらく知性がある。
つまり――モンスター以上の何かだ。
あのルクレツィアがなぜその存在を知っていたのか、そして目覚めさせることができたのか、シドには見当も付かない。わかるのは、彼女は確かに宝条並みの、もしくはそれ以上の科学者であったのだということだけだ。
四体目の悪魔の技は凄まじかった。衝撃波を浴びたモンスターは外傷もないのに倒れ、その死骸は触れるとぼろぼろと崩れ落ちた。思い起こした光景に、シドは抱えた槍を無意識に握りしめる。
――あれを、殺せるか?
物騒なその自問は今に始まったものではない。
自身のリミット技に常に不安を抱えるヴィンセントは、万が一自分が仲間に危害を与えるようであれば躊躇うなと常に言っている。まずそうならないよう気張りやがれと口では言いつつ、シドはいつだってその覚悟はしていた。ヴィンセントもシドも、断じて女子供にその役をやらせたくはないからだ。
得体の知れない攻撃方法からみれば、魔法型。だが筋骨を備えた立派な体躯に鉤爪まであったことを思えば、接近戦に弱いとも言いきれない。
何よりも、翼だ。戦闘において上空を取ることは圧倒的アドバンテージだ。翼は目に見える最大の弱点ともいえるが、届かなければ何の意味もない。仲間内で対空にもっとも威力を発揮するだろう一人が当のヴィンセントなのはお笑い草だ。
「……はあ」
背に、翼。シドの脳裏に焼き付いたあの姿が、目を開けても閉じても消えない。
ざり、と微かに擦れる音がした。シドははっと顔を上げる。
横たえられたヴィンセントの、焚火に照らされてなお白い顔。億劫そうに瞬く瞳の色は見えないが、少なくとも黄金ではない。いつの間にかすっかり日が暮れていた。
「ヴィンセント。起きたか」
「……ああ」
シドは槍を置いて立ち上がった。手を貸してぐるぐる巻きのマントを解いてやると、ヴィンセントは自分で身を起こして岩に座りなおした。
緊迫した状況でないことはすぐに察したのだろう。マントを肩に羽織ると手早く装備を確認している。
「体調は」
「問題ない。――面倒をかけたようだな、すまない」
「どこまで覚えてる」
「……カオスを、呼び起こしたところまで」
シドは鍋に水を足し、残りを水筒ごとヴィンセントへ放った。ヴィンセントが大人しく口をつけている間に少し火を調整する。
「カオスっつーのか、あれは」
「……どうなった」
「暴れたりはしてねぇよ。咆哮一発で群れを全部沈めて、すぐお前に戻ったさ。ただそのまんま意識を失ったんで、担いでいったん避難してきた」
なるべく軽くシドは話したが、ヴィンセントの表情は重苦しい。無理もない。
シドはインスタントのスープの封を切り、二つのマグに分けて湯を注いだ。項垂れているヴィンセントにその片方を差し出す。
「とりあえず飲め。んで食え。話はその後だ」
ヴィンセントにむりやりマグを受け取らせると、シドは荷物から携帯食の硬いビスケットを取り出して二つに割った。さほど美味いものではないが、温かいスープがあればかなりマシに食べられる。
ヴィンセントのリミット技は外から見ればいわゆるバーサク状態に陥るものだが、ヴィンセント自身は決して自失しているわけではない。単純な慣れか魔獣の性質によるものかはわからないが、今ではガリアンビーストあたりなら多少の制御もできるとシドは聞いていた。
今回のように、意識を切られ状況を知ることすら適わないというのは異常事態なのだ。
多くのリミット技がそうであるように、レベルを重ねるほど強力になっていく魔獣たち。シドが見た光景は、その四体目がいよいよ手に負えないかもしれないという、ヴィンセントにとっては悪夢を越えた恐怖の兆しとなりうるものだ。
シドの伝え方ひとつで、ヴィンセントはこの旅を終わらせた後また棺桶へと逆戻りしかねない。そうなればルクレツィアが消えセフィロスが消えた世界に、ヴィンセントは恐らく二度と現れることはないだろう。死ぬこともできないのに。
責任重大じゃねぇか、とシドは内心に独り言ちた。
ヴィンセントという一人の男が背負い込んだ暗闇の重さにこうして思い至るたび、シドは心の底からぞっとする。そしてそれを背負いながら立ち上がることを選んだヴィンセントを、口にはしないがシドは尊敬していた。まったくもって見習おうとは思えないが。
あのルクレツィアが碌な説明もなく寄越した四体目をヴィンセントがあっさり受け入れていたのを知ったとき、シドやユフィは思わず激高したものだ。ヴィンセントが自らの身をなげうつほどの価値を、シドやユフィはあの女に対してどうしたって見いだせない。ようやっと気心のしれてきた無口で不愛想だが心優しい男のことの方が、よほど大切に決まっている。
大切なものは人によって違う。そして自分にとって大切な相手が、自分を同じように思ってくれるとは限らない。ヴィンセントを見ていると、そんな当たり前の事実が重く心にのしかかる。
ヴィンセントが背負うそれは、掛け違えたボタンのように少しずつずれたまま押し付け合ってしまった人間関係の成れの果てだ。ただ誰もが、何かを、諦められなかっただけの。それは不幸にも、世の中全てを巻き込んだ全くやり直しがきかない事態へと発展してしまった。
どれほど努力してもどうしても噛み合わない何かというものが、この世にはある。ヴィンセントとルクレツィア、そして宝条の愛とは、そういった類のものだったのだろう。
シドにとっての飛行機やロケット――求めてやまない空を征く手段が、そんなことをカケラも望まないだろうヴィンセントの背にあるように。
ささやかな晩餐を終え、今度はインスタントコーヒーを注いだマグを押し付けながらシドは切り出した。
「どうもありゃあ、今までのと違うな」
「……それは、どういう意味でだ」
マグを抱え込んでじっとシドを見つめるヴィンセントは、いつも以上に真剣だった。変身と同時に意識を失った彼がカオスのことを知る手立ては、それを見ていたただ一人、シドの言葉しかないのだから当然だ。
シドは薄いコーヒーを啜り、眉間に皴を寄せながら重い口を開く。
どれほど考えたところで結局嘘や気休めは通用しないのだから、見たままを告げるしかなかった。
「……知性っつーか、意思があるんだろうよ。お前に戻るとき、俺を見て笑いやがった」
「笑っ、た……?」
ヴィンセントの無表情が凍り付く。顔色は焚火越しでもわかるほどに蒼白だ。
予想していたはずの彼の反応が実際目にするとあまりにも哀れで、シドは焦燥にガシガシと頭を掻く。
「ほんの一瞬だったから確かなことは言えねぇ。だがよ、なんつーか、だからと言ってアレを他のヤツら以上に無闇に恐れる――構えすぎるのもどうなんだ、とも思うぜ。まったく必要がないとは言わんが……勘だが、それは逆に弱みを明らかにしてるみてぇなもんだろ」
シドの言葉を噛みしめるように俯いていたヴィンセントが、ぼそりと言った。
「……そこを突かれる、と言いたいのか」
「お前最近はガリアンビースト、乗りこなしてきてるだろ。最初ほど気構えずに使うようになってるし、傍から見てても安定してるぜ。運転はやっぱ、ある程度自信を持って取り組んだ方がいい」
ヴィンセントのリミット技の制御を、以前シドは思い付きで運転免許に例えたことがある。以来、魔獣を乗り物と呼ぶのは二人の間で定番の例えだった。センシティブになりがちな話題をうまく共有するためのテクニックだ。
もっともどれほど軽く例えたところで、今度ばかりはヴィンセントの深刻な面持ちは晴れそうになかった。シドは結局部外者で、ヴィンセントは当事者だ。魔獣の為した結果は全てヴィンセントに跳ね返る。
「根拠のない自信は事故を招くだけだ。その結果自分が事故死するだけならまだしも、他人を巻き込んでは取り返しがつかない。――真っ先に犠牲になるのは、あんたたちなんだぞ」
「そんなにヤワじゃねぇだろ、俺たちはな。だいたいお前一人殺せないで、セフィロスを殺せるかってんだよ」
まるで睨み合うかのごとく視線がぶつかった。
自分が敵のみならず仲間をも手にかけるかもしれない。ヴィンセントが抱えるその危惧を、シドも仲間たちもとうに知っている。それを解決する手段として”返り討ち”を提案するのはいささか乱暴が過ぎたが、この寄せ集めのパーティにとっては似合いのものだろう。
「確かにお前の問題ではあるんだが、だからって全てを一人で何とかしようと思うな。もう少しぐらい、俺たちを信用していいんだ」
揺るがない空色から根負けしたようにヴィンセントが目を逸らし、ぐっと唇を引き結んだ。
「……信用していない、わけじゃない」
「知ってるさ。そうでなきゃそもそもこんな話はしてねぇ」
こんな寄せ集めのパーティでさえ、少なくともヴィンセントが仲間たちに対して思うのと同じくらい、仲間たちもヴィンセントのことを気にかけている。シドにだってその程度の自負はある。そのことをヴィンセントに教えてやりたかった。知っておいて欲しかった。
全てが一方通行であったかつてとは、もはや違うのだと。
ぱちん、と大きく焚火が鳴った。揺らめく炎の色が俯いたヴィンセントの目元を照らし出す。
「……使うな、とは言わないのだな」
「むしろ今ガンガン使って慣れておいた方がよっぽどいいんじゃねぇのか。今なら万が一があったって、俺たちが止められる。実際ガリアンビーストは扱えるようになってきたわけだろ」
試したわけもないが、シドはあえて”止められる”と断言しておいた。
「それによ、もったいねぇだろ。飛べるんだぞお前」
「……は?」
ヴィンセントが顔を上げ、不思議そうに目を瞬いた。
その様子に、シドは自分がカオスの外見に関して何一つ伝えていなかったことに気付く。
「あーすまん。カオスってのの見た目は、一言でいうとコウモリみてぇなでかい翼がある悪魔だ。つまり、飛んでた……ワケでな」
そこでふとカオスの笑みの理由に思い至ったシドは、珍しく深々とため息をついた。
「あー……悪い。アレが笑ったのも当然だったかもしれねぇ」
「……シド?」
「たぶんあん時の俺の顔にはでかでかと”羨ましい”って書いてあったんだろう……から、よ。本当にすまん、殴っていいぞ」
おそるおそる発したシドの言葉を数秒かけて理解したらしいヴィンセントが顔を引きつらせた。大抵のことには動じない彼がこうも明らかに引いている。神経が図太い自覚のあるシドでもさすがに傷つく反応だ。せめて怒るとかキレるとかの方にして欲しかった。
「……あんたは本当に……筋金入りだな」
「反論のしようもねぇ」
自分でもさすがにどうかと思う。思い通りに空を飛べるなら本当に何でもいいのか。自分の願望がここまで見境ないものだったとは、シドとしてもあまりに予想外だった。
しかしそのおかげで、重い空気は若干和らいだ。怪我の功名とはこのことか。
姿勢を直したヴィンセントが思い出したようにマグを傾ける。
「……翼、か」
「おう」
「厄介だな」
「倒す方で考えてりゃな。翼は間違いなくアドバンテージだ。お前が使いこなせたならどんだけ便利なことか。いいか――」
空に焦がれてパイロットにまでなったシドは、飛べることの有利を百でも挙げられる。そのうちの一つか二つかでも、ヴィンセントの心に響けばいいのにと思う。
魔獣をヴィンセントの身体から引き剥がすのは、おそらく不可能だ。果てがあるのかすらわからないこの先の人生を、ヴィンセントは魔獣と共に生きていかねばならない。
それでもシドは、旅を終えた彼に陽の下で生きていて欲しいのだ。科学者でも何でもないシドがそのためにできる手助けなんてほんの些細なものでしかないとわかっていても、こうしてお節介をせずにはいられないのだった。
***
「……シド!」
「おう、任せろ!」
実地に森を選んだのは飛び立たせないためだった。
モンスターの群れを牽制するシドとクラウドの目の前で、ヴィンセントの姿が変わっていく。ばさりと広がるその赤黒い皮膜の翼に、シドはやはり目を奪われた。
優雅に空中へ羽ばたいた悪魔は、今度は魔法を選択したようだった。放たれた黒煙がまるで死神の顔にも見える渦を巻き、モンスターがばたばたと倒れていく。
(――えげつねぇな)
おそらく即死魔法だ。しかもこの広範囲に。
あっという間にモンスターをせん滅し終えた悪魔は翼を大きくはためかせた。シドが見つめる前でその姿が翠の光を帯び、白い肌と黒髪を持つヒトの姿に変わる。
ふわりとマントを広げて地に降り立ったヴィンセントはわずかにたたらを踏んだ。だが、くずおれはしない。
赤い瞳がどこか戸惑ったように、槍の構えを解かずにいるシドを見た。目が合って、二人同時に息を吐く。
「上出来じゃねぇか」
「今のがカオスか。すごいな、あんたとうとう飛べるのか」
剣を担ぎ直して近寄ってきたクラウドがのんきに言った。ヴィンセントが首を振る。
「自分ではまだ、何も。意識を保つだけでやっとだ」
「それもそうか。翼の動かし方なんて普通の人間はわかんないよな」
シドとヴィンセントは思わず顔を見合わせる。
「ん、なに? 俺変なこと言ったか?」
「いや……」
「じゃ、とりあえず大丈夫ってことはわかったんだし、いったん戻って合流しよう。今日はベッドで寝たい」
「おう、賛成」
「ああ。世話をかけた。感謝する」
ヴィンセントも頷いて、三人は森を出るべく歩き出した。
「……普通の人間、だってよ。あの言い方、翼が生える他のヤツを知ってそうじゃねぇか」
「セフィロス、なのだろうな。おそらく」
クラウドの後ろを付いて行きながら、シドとヴィンセントは小声を交わす。
何の衒いもなくヴィンセントを普通の人間扱いしたクラウドが、反面セフィロスのことは完全にモンスター扱いしているという事実が妙にじわじわと迫ってきて、二人は目を見合わせて笑いをかみ殺した。
「な。信用していいって言っただろ」
「ああ。……ありがとう」
クエェ、とチョコボの鳴く声が聞こえた。森へ入る前に放しておいたのを、クラウドが慣れた様子で呼び集めている。
一気に開けた視界と射しこむ光の眩しさに、ヴィンセントはそのまなざしを細めた
