「ほれ」
その日、シドが無造作にヴィンセントへと突き付けたのは小さめの紙袋だった。
思わずといった様子でそれを受け取ったヴィンセントは、いつもの無表情のままシドを見返した。彼の無言の問いに対し、シドはよくわからんとでも言いたげに肩をすくめる。
「シエラから、お前に渡してくれだとよ。ブラウニーだからな。ひっくり返すなよ」
「シエラが?」
意外とも当然ともいえるその名前には特に驚くでもなく、ヴィンセントは紙袋を開き中を覗き込んだ。
鎮座しているのは赤いリボンが斜めにかけられた黒の紙箱だ。香ばしいナッツとチョコレートの香りがふわりと漂う。中身がケーキの類であるなら小さめのワンホールといったサイズに見えるが、その割にはずしりとした重みがあった。
「もともとはバレンタインデーにシエラが作ってたんだがよ。なんでかそのレシピが絶対お前好みの味だとか言って、今日に合わせて焼いて持たされた」
シドはどうにも納得しきれていない顔で説明する。
シエラにそう言われて紙袋を渡されたとき、シドは首を傾げたものだ。何を食べても反応が変わらないことで仲間内に知られるヴィンセントの好みの味とやらを、なぜシエラが断言できるのかと。
だが経緯を聞いたヴィンセントはもう一度紙袋の中に視線を落とし、そして微かに表情を緩めたのだ。目ざとくその変化に気付いたシドは思わずヴィンセントの顔を凝視する。
「……お前の分しかねぇからな。ユフィが来る前にちゃんと隠しとけよ」
「わかった。シエラに礼を伝えておいてくれ」
「自分で言えっつの。お前、それ受け取ったら来月何か返さなきゃならねぇんだぞ」
首を傾げたヴィンセントに、やっぱりなとシドはため息をついた。バレンタインデーに対するホワイトデーという慣習は意外に新しいものだ。おそらくヴィンセントが普通に社会で生きていた頃にはまだ一般的でなかったのだろう。
一か月後に返礼をするという妙に営利的なイベントの説明を受け、ヴィンセントはなるほどと呟きつつ頷いた。
今日はバレンタインデーでもヴィンセントの誕生日でもない。だが明日はシドの誕生日であり、それに合わせて何名かが今晩セブンスヘブンで集まる予定となっていた。携帯電話へと寄越される参加の催促にヴィンセントが今回珍しく是と答えたことを、シエラはシドから聞き及んだのだろう。
つまりヴィンセントは一ヶ月後までに、何かしらの手土産を持ってロケット村を訪ねなければならない。この紙袋の意味とはそういうことなのだ。
「……なぁ、お前もしかしてシエラと仲が良い……のか?」
ヴィンセントの反応を見ながらしばらく考え込んでいたシドが、神妙な顔でそう問うた。言葉だけをとればまるで浮気でも疑っているかのようだが、シドの戸惑いが本当に額面通りのものでしかないことは口調でわかる。
目を瞬いたヴィンセントはきっかり五秒の間言葉を考え、結局最初に頭に浮かんだそのままの答えを返した。
「たまに二人で酒を呑む間柄ではある」
「はぁ? お前とシエラがか?! いつから!」
「星痕が収まった後からか。――別に心配せずとも、大体あんたの話しかしていないぞ」
「逆に心配になるってもんだろ、それはよ!」
シドが悲鳴のような声を上げる。まさかとは思ったが、本当にそうなのか。旅に同道したわけでもない妻シエラが、いったいいつの間にどうやってヴィンセントと親交を深めていたというのだろう。
ヴィンセントは決して人付き合いに積極的な方ではない。その身に抱える事情から、かつての彼は旅の仲間たちとさえ一定の距離を崩さなかった。そんな彼を構い倒して真っ先に酒を呑み交わす仲になったシドは、そのことに対し、誰にも懐かなかった美しい猫が自分にだけ振り返ってくれたかのようなささやかな優越感を抱いていたものだ。
もちろん今は違う。あの旅を終えたヴィンセントは、少なくとも他人を頭から拒絶することはなくなっていた。向き不向きの程度の差はあれど、彼なりに人間の社会と付き合っているように見える。
だがそのうちの一人がシエラだというのは、やはり予想外過ぎた。しかもその話題が話題だ。いや、この二人に共通の話題などそれこそシドのことくらいしかないだろうが――
ぐるぐると考えを巡らせながら赤くなったり青ざめたりしているシドの様子を眺め、ヴィンセントはひとまず彼が落ち着くのを待つ。
シエラとの友人関係を隠しているつもりは毛頭なかったのだが、彼女と二人で呑むということはすなわちシドの不在時なのだ。そしてシドは、シエラとヴィンセントのどちらに対してもそういった――浮気かといったありえない誤解はしない男だ。当のシエラとヴィンセントの方から見てもその信頼が確かだったために、二人して油断していたとも言える。
誤解はされないにしても、驚きはするだろう。つまりそういうことだった。
ヴィンセントがどうしてシエラと友人関係を築くに至ったのか。そう聞かれれば、ヴィンセント本人にも説明は難しかった。世間一般的には、シエラはどこにでもいるおっとりとした主婦かもしれない。だがヴィンセントから見た彼女は、なんとも底が知れない恐るべき女性だった。
そもそも、男社会であったはずの技術者集団の中で一目置かれている女性が只者であるはずがないのだ。慌てるような仕草がひとつもないためかのんびりしてみえるが、機械いじりも家事も、シエラの仕事は常に確かだ。そしてあの傲岸不遜なシドを、本人にも誰にも気付かれないまま御す手腕。かつてヴィンセントが仕事のために学んだ人心掌握術にも似ているが、彼女はそれを計算でなく行うことができるのかもしれない。
そうだ。元タークスであるヴィンセントでさえ、彼女の誘いに乗せられたのだ。ある日ふとロケット村を訪ねたもののシドは不在で、シエラに出迎えられて断り切れず、それから。
シエラは恐るべき聞き上手でもあった。自らは世間話の話題を何も持たないヴィンセントでさえ、打てば響くような会話が続けば楽しさをおぼえるものだ。既婚女性が集まれば自然と夫の愚痴を言い合う会になると聞くが、シエラとヴィンセントの間でシドに文句をこぼすのはヴィンセントの方だった。シエラはにこにこしながらヴィンセントが話すシドの話題を楽しんでいる。シエラの立場からは決して見えないシドの一面だからだろう。彼女は本当にシドを尊敬するとともに愛していて、そんな彼女が語るシドの姿は、やはりヴィンセントにとって新鮮なものだった。
シエラとヴィンセントには、シドの観察という共通の趣味があると言えるのかもしれない。だがそんな結論をシド本人へと告げるのは、さすがにヴィンセントでも憚られた。
目の前のシドは何かを聞きたそうに、だが聞きたくなさそうに口元をわなわなと震わせている。ヴィンセントはもう一度紙袋へ目をやってから、口を開いた。これがシドへ託されたということは、シエラの方も特に隠したいつもりはないのだろう。
「来月、あんたたちが二人とも家に居てひまな連休はいつだ」
「あん? ちょっと待て――」
シドはジャケットの内ポケットから使い込まれた手帳を取り出し、ぱらぱらとめくった。書き込まれたマンスリー欄を、ヴィンセントも上から覗き込む。
「――こことか、この辺か? なんだ、ちゃんと予定立てて来る気か。珍しいな」
「泊りで呑むからな。あんたもそのつもりでいろ」
あまりにもレアなヴィンセントからの誘いにシドがぱっと顔を明るくし、次いでいぶかしげに眉間に皺を寄せた。
さすがに勘付くかと思いながら、ヴィンセントは薄く笑みを浮かべる。
「あんたを疑心暗鬼にするのは、我々としても本意ではない。ならば我々がいつもどんな話をしているか、実際に聞いてみればいいだけだ。そうだろう、シド・ハイウインド?」
あんたにも何か発見があるかもな、とヴィンセントが殊更に口角を上げて見せれば、シドは顔を引きつらせて後ずさった。シドの勘はガンガンに警鐘を鳴らしている。しかしシエラとヴィンセントという、よく知っていながら未知の組み合わせが気になるのもまた事実だった。
シドは天を仰いだり唸りをあげたりしながら五分ほど盛大に迷った挙句、結局好奇心に屈した。ならばヴィンセントの気が変わらないうちにと、シドはさっそく携帯で日付とメッセージをシエラへ送信する。ぽん、とすぐ付いた既読とスタンプに一抹の後悔がよぎるものの、決めてしまったからには後戻りできないのがシドの性分だった。乗ったにしろ乗せられたにしろ、もはや成り行きに任せるしかない。
「シエラもその日でいいってよ」
「そうか」
「……ヴィンセント。ところでおめぇ、味がわかるようになったのかよ」
シドは全ての発端たる、ヴィンセントの持つ紙袋を顎で指した。ヴィンセントは微かに首を傾げ、考えながら口を開く。
これはヴィンセントに味覚がないという意味ではなかった。シドの発言は、ヴィンセントが舌で味を感じてもそれを受け取る肝心の情緒が死んでいるという、彼の難点のことを示している。味覚自体には薬物混入を見分けられるほどの性能があっても、ヴィンセント本人は食事を単なる補給としか捉えられない。食に興味がない人間というのはそれなりに居るものだが、ヴィンセントのそれは今や興味がないというレベルではなく、シドがこれまで出会ってきた中でも群を抜いている。
「美味いか不味いかはわかる」
「その不味いモンを口に入れて何一つ感じねぇってのは、わかるうちに入らねぇんだよ」
苦々しげな顔でシドは言い返した。
ヴィンセントはかつての旅の最中、焚火の加減に失敗して炭になった何か(比喩ではない)を黙々と完食していた実績がある。表情も顔色も変わらないので、完食間際まで誰も気づかなかったのだ。もちろんその後は大騒ぎになったし、隙を見て処分するつもりで鍋を横によけていたエアリスは特に顔を真っ青にして「ちりょう」のマテリアを構えていたものだ。
当のヴィンセント本人はけろりとして「食べ物を無駄にはしたくない」などと言っていただけだが、勘の良い者はヴィンセントが神羅屋敷で口にしていただろうものについて思い至ったはずだ。普段はうまく誤魔化しているものの、ヴィンセントには時折そういった”壊れた”部分が垣間見えた。おそらく、人生の過酷だった時間においてヴィンセントが失くしてしまったものは彼が思うより多いのだ。
それから食事のたびにヴィンセントを観察するようになったシドは、成果というよりほぼ勘で、彼が甘党であろうことには気付いた。言いがかりをつけて酒を飲み比べさせ、大まかにはワインを好むらしいとも見当をつけた。だが、せいぜいその程度だ。
はあ、とシドはため息をつく。
「シエラの料理は美味いか」
「……どれも美味いことはわかる。だが好ましいかどうかは、やはりよくわからない」
ほんの一瞬困ったように視線を揺らがせたヴィンセントは、しかし素直にそう答えた。相手がシドでなければおそらく差しさわりのない答えを返していたに違いない。だがそもそも質問の意図がわからないという反応だった頃よりは、だいぶマシになったとシドは思う。
シエラがああ断言できた根拠はシドにはさっぱりわからないが、自覚はないにせよ、ヴィンセントにもし失くした部分が戻りつつあるのなら。シドがこれまでヴィンセントに対して余計な世話を焼いてきた甲斐もあるというものだろう。
健啖家でもあるシドは、食は人生の最も身近で大きな楽しみだと信じている。そしてその楽しみを、家族や友人や仲間たちとどんどん共有していきたい派なのだ。
ヴィンセントが手に下げた紙袋を、シドはじっと見る。
「ふーん、意外と回数食ってんのか……。なあそれ、今から開けねぇ?」
「セブンスヘブンの前にか」
「支障が出るほど少食ってこたぁねーだろ。俺もお前も」
ヴィンセントは当然難色を示すが、シドの意図は読めた。本人にもわからない好みの味とやらを食べた際のヴィンセントの反応を、シドは確認しておきたいのだ。
送り主はシドの妻なのだし、おそらくはその方が、ヴィンセントが一ヶ月後に貧相な感想を述べるよりもよほど有用な報告となるのは間違いないだろう。ヴィンセントは頷いた。
「……そうだな、構わない」
「あー、じゃあ、宿舎行くか」
「いや。セブンスヘブンには私の宿の方が近い」
「お、んじゃそっちにすっか。飲み物は俺様が奢ってやるよ」
「……コーヒーがいい。と、思う」
「へええ?」
さっとマントを翻して歩き出したヴィンセントの後を、シドが追う。一歩追い抜かして覗き込めば、ヴィンセントはほんの少し眉を下げた顔でシドを見返した。
「おかしいか」
「逆だ逆。ちゃんと成長してんなぁお前。俺様嬉しくなっちまったぜ」
家だったらちゃんとしたのを淹れてやったのに、とにやにや笑うシドは心底嬉しそうだった。凝り性のシドは、自ら豆を挽いてコーヒーを淹れるのだ。ヴィンセントにもふるまったことが幾度もある。
食事も、酒も、コーヒーも。それら積み重ねてきた経験は決して無駄でなかったのだ。
喋り続けるシドからヴィンセントはふいと目を逸らす。来月の手土産を考えなければな、とユフィやティファの世間話を思い起こしながら、彼はマントの襟の奥でひっそりと口元を緩めた。
