Ignorance is bliss.
磨き上げられた巨大なガラスの自動ドアを抜けた途端、都会特有といえる排気交じりの蒸した空気がどっと押し寄せた。あらゆる方向から絶え間なく響く喧騒に、聴覚が早や辟易とした不快を訴え始める。
せわしなく行き交う人通りの密度は、ニブルヘイムなど比べ物にもならない。誰もが互いに無関心を貫きながらひたすらに目的へと邁進してゆく。そのさまは、ひとつひとつの点が生きた人間だとは逆に信じがたいほど無機的な何かの群れにしか見えないのだから、不思議なものだ。
――こんな形で、ミッドガルへ戻ってくることになろうとは。
車道に面した噴水の傍で、出てきたばかりの神羅ビルを眩しく見上げながら、ヴィンセントはしみじみとこの十日間を思い返していた。
***
ニブルヘイム炎上阻止というひとつの目標点をひたすらに目指していたヴィンセントは、もしそれがうまくいった場合に未来がどう変わるかという予測を、意識的に避けていた。ヴィンセントはその性格上、楽観的な未来像というものがほとんど想像できない。考えるほど後悔の泥沼にはまり、身動きが取れなくなる危険性を自覚していたからだ。
ゆえに今自分がセフィロスから求められてミッドガルに居るという奇跡的な現実を、ヴィンセントはまだどこか半信半疑に受け止めている。
好都合、と言えばもちろんそうだろう。ニブルヘイムでのセフィロスはなんとか持ち直したが、ミッドガルへ戻ればまた宝条から良からぬ方向へと導かれるのは確定と言えた。ジェノバも健在である以上、セフィロスが”壊れる”可能性はこれから先にも多分にある。
その時にヴィンセントがセフィロスを支えようとするならば、まず彼の傍に居なければ始まらない。
過去にセフィロスと友誼を結べたことですら、ヴィンセントは常々幸運という言葉では済まされないと感じていたが、その上、本来ならば非常に狭き門の先にあるはずの神羅内での地位までもをセフィロス本人からぽんと与えられたのだ。ヴィンセントから見れば現在、事は仕組まれたかのように上手くいきすぎていて、いっそ恐ろしいほどだった。
――だが、セフィロスにとってはどうか。
あの日ヴィンセントだけが垣間見た、まるで子供のように必死に希う彼の目は真剣だった。
自覚の有無は不明だが、おそらくセフィロスには、あそこでヴィンセントを手放せば自分が自分でいられなくなる――そういった類の危機感があったのだろう。ジェノバの囁きが彼にどう影響しているものかはヴィンセントにはわからない。だが民間人を武器で脅すというセフィロスらしからぬ強引な行動は、彼の並々ならぬ焦燥を如実に証明していた。
ヴィンセントがそこに見たのは、彼が彼でありたいというただそれだけの、あまりにも普通で真摯な願いだった。英雄と呼ばれる者が抱くには、あまりにも哀れで些末な願いだった。それは決して、好都合などという言葉で片付けてはならないものだった。
”以前”では誰にも、セフィロス本人にすら気付かれることなくジェノバに呑まれたその願い。それが、あの日セフィロスからヴィンセントに対して露わにされたことで初めてこの未来が生まれたのだと、ヴィンセントは今や確信している。
ニブルヘイムの炎上が回避され、ヴィンセントがセフィロスと共にいる今の状況を奇跡と呼ぶならば。それは間違いなく、セフィロス自身が引き寄せたのだ。
未来は変わった。
それは未来を知っていたヴィンセントだけの力では到底不可能なことだったのだと、今ではわかる。
ティファ、ザックス、そしてセフィロス。未来を変えたのは、未来を知らぬ彼らの願いと行動だったのだから。
***
ヴィンセントが立つすぐ傍の車道に、すっと一台の車が横付けされた。
運転席のスモークガラス越しに、サングラスを掛けたセフィロスが手招いている。
ヴィンセントが素早く助手席へと乗り込むと、車は高級車らしい実に滑らかな動きで発進した。包み込まれるような座席に快適な空調。実用一辺倒な田舎のトラックやバギーとは大違いの乗り心地に、ヴィンセントは思わず安堵の息をつく。
これがミッドガルにおける英雄セフィロスの日常だ。今さら怯むわけでもないが、ヴィンセントが現在身を寄せているセフィロスの自宅マンションも最高級ホテルかと思うような豪華さだった。神羅が最も輝いていた時代の豊かさというものをヴィンセントは改めて感じるとともに、この栄華を手放したくなかったわけだと、”約束の地”を探し求めた神羅の専横的な行いに思いを馳せる。
ヴィンセントは、今のセフィロスが自分を必要とする理由を理解している。そしてその理由が、おそらくザックス以外の人間には理解されないだろうこともわかっている。
だがセフィロスを取り巻く神羅の人間たちにとって、ヴィンセントは突然卓上に置かれた路傍の小石にすぎない。小石の分際で英雄セフィロスに拾い上げられるなど不相応だと、彼らはあらゆる異論を申し立ててヴィンセントの排除に動くだろう。セフィロスの補佐官という新たな役職には、今やそれだけの価値がある。
長く生きた”以前”を鑑みてもまったく地位や名声に頓着したことがなかったヴィンセントは、ここにきて全く経験のない類の戦いを強いられることになる。だが、引くつもりはなかった。
「君という友人を一人にさせないためにそこへ立つ」と、ヴィンセントは誓ったのだ。あのニブルヘイムの宿屋で、眼前のセフィロスとザックスに。そして、今やヴィンセントの胸中にしかないあのルクレツィアの面影に。
”ヴィンセント・ロックハート”にとってのセフィロスは間違いなく、大切な友人だ。
だがそれ以上に、”ヴィンセント・ヴァレンタイン”という根底においてセフィロスは、愛した女性が愛した子供なのだった。”以前”にこの手を以て討ち果たした事実がある以上決して許されない想いではあるが、できることなら彼は、自分が父親になってやりたかった存在でもあった。
つまるところ、セフィロスに対するヴィンセントの目線は保護者のそれに近い。たまにザックスから鋭い指摘を受けることもあり、同年代の友人としては不自然にならないよう意識を改めなければと、常々思ってはいるのだが。
座ってしまったせいかどっと押し寄せてきた疲労感に、ヴィンセントは幾度か瞬きを繰り返す
「疲れたか」
「……そうかもしれない。田舎とは時間の流れ方が違うな」
揶揄うような響きを伴ったセフィロスの言葉に、眉間を揉みながらヴィンセントは苦笑を返した。
ふっと笑ったセフィロスが、視線を前方へと戻しながら話し出す。
「ヴィンセント、ミッドガルの住宅事情は知っているな。しばらくはこのままオレのマンションを使うといい。どうせ余っている部屋だ」
「……そうだな。すまないが、ご厄介になる」
「オレが呼んだのだからこれくらい当然だ。何も気兼ねするな」
プレート型都市という条件上、ミッドガルの土地面積はどうしても限られている。建物を高層にすることで対策が取られているものの、増加し続ける人口に対応しきれず空き部屋は常に不足していた。地代や家賃の高騰もあり、当然ながら神羅の社宅も大人気だ。新入社員が申請したところで、空きがなければどうにもならない。
空き部屋が出次第最優先でこちらへ回すようセフィロスが既に総務部へ圧力をかけていることを、ヴィンセントは知らない。この引越しに関しては、友人をほぼ身一つで引っ張ってきてしまったことに責任を感じているセフィロスがあらゆる援助を惜しむまいと勝手に心に決めていることも、ヴィンセントはまだ知らない。
「遠征任務の後は最低三日の休暇と定められている。オレはいつでも付き合えるが、今日はどうする」
ハイウェイへと入り、速度をあげながらセフィロスは横目でちらりと助手席を見やった。社員用ID取得手続きのために神羅ビルへ連れてこられたヴィンセントは、ごく一般的なビジネススーツ姿だ。大学生の頃のものだと言って苦笑していたが、ヴィンセント本人のスタイルが良いためか実に堂に入って見える。
「……まずスーツだな。君が使っているテーラーを紹介してもらえるか? それからガンショップ」
ヴィンセントが真っ先に要求したものの意外性に、セフィロスはサングラスの下で目を瞬く。
だがすぐに思い直した。これは、ヴィンセントがセフィロスの補佐官として隣に立つためのひとつの権威付けだ。平和に暮らしていたヴィンセントを有象無象が集う神羅という闇へ無理矢理引き入れてしまったことに、しかし彼がそこへ適応するべく努力と思考を巡らせてくれていることに、セフィロスは改めて気付かされる。
「テーラーには連絡しよう。ガンショップは、すまないがオレにはわからない」
「私が知っているから、近くで降ろしてくれればいい」
答えを予想していたのか、ヴィンセントは軽く頷いただけだ。
ずっと神羅の内部で育ってきたセフィロスは、そもそも武器を市井で買う経験がなかった。ソルジャー1stとなった今でこそ使っている大太刀はワンオフのものだが、支給品であることに変わりはない。
セフィロスはニブルヘイムからミッドガルへと戻る道中にもヴィンセントが携えていたライフルを思い起こした。使い込まれた飴色の木材が艶やかな、ごく一般的なのだろうが神羅軍ではあまり見ないタイプのものだ。一般兵のサブマシンガンよりも長い射程を、ヴィンセントはその索敵能力と共に存分に活かしていた。
「あのライフルに何か問題が?」
「いや、あれは猟銃だからな。これからのことを考えれば、携行の利くハンドガンが必要だろう。……試し撃ちもしたいのだが、使える施設はあるだろうか、セフィロス?」
「ソルジャー用の訓練施設を使え。オレが立ち会えば今でも問題なかろう」
「……それはありがたいが、君は休暇中だろう」
「自主トレーニングの義務もあるからな。むしろ都合がいい」
セフィロスがそう言い切ると、ヴィンセントは少し雰囲気を和らげたようだった。ネクタイの結び目を緩め、ミッドガルの街並みが流れゆく車窓へと目を移した彼に、セフィロスは少しためらいながら口を開く。
「ヴィンセント。……来てくれて、感謝する」
ヴィンセントは驚いたように隣へ向き直ったが、セフィロスはまっすぐに前方を見据えたままだ。運転中なのだから当然といえばそうだが、あまりにもあからさまな英雄のその態度にヴィンセントはくくっと微かな笑いを洩らす。
「気にするな。……と言いたいところだが」
「が?」
「君にはしばらく私の財布になってもらうぞ。後でせいぜい後悔するがいい」
「フッ。望むところだ」
高給取りでありながらその金をほとんど使う当てのないセフィロスにとっては、ヴィンセントが想定している程度の出費など痛くもかゆくもない。正直なところ物件さえあれば部屋を丸ごと買い与えたって構わないのだ。それが一般的にドン引きでは済まされない所業だという常識をセフィロスが一応持ち合わせていたことは、何も知らないヴィンセントにとっては幸いだった。
それぞれの思惑は胸に秘めたまま笑い合った二人を乗せて、車は軽快にハイウェイを走り抜けていく。
