「星は、お前の働きに満足している」
唐突な声に、ヴィンセントは後ろを振り返った。
現実とは思えない真っ白な空間に、男が一人立っている。紺のスーツと、短く整えられた黒髪。見慣れているはずなのになぜか違和感のぬぐえない、自分と同じ顔。
かつての己の姿が、金色に光る異形の眼をもってそこにいる。
「……カオスか」
自分の身体に宿る星の眷属、カオスが、こうして夢を通じ接触してくることはこれまでにもあった。なぜ毎回その姿なのかという常の疑問を飲み込み、ヴィンセントは微かに眉を顰める。
夢、のはずだ。自分は今眠っているのか? 最後の記憶は、そう、オメガを――
「安心していい。オメガは飛び立たなかったし、お前も死んではいない」
「……そう、か」
自分が生き延びたという結果が不思議に思えた。命を捨てるつもりはなかったが、不死の身体に勝算があったわけでもない。あの時は他に何も考えられなかった。ただ、ああするしかなかったというだけだ。
不死の身体を厭いながら、命を拾ったことに安堵するのか。後悔はどちらに対して抱くべきなのだろう。
「後悔とは、できる限り感じたくないもののはずだろう。やはりお前の感情とはよくわからないな」
カオスは無表情のまま首を傾げた。星の兵器に感情などという余計な機能は備わっていないと、かつてカオス自身が言っていた。あるいは今学習しているつもりなのかもしれないが、感情のサンプルとして私はまったく向いていまい、とヴィンセントは思う。
「いいや、お前は悪くない宿だったとも。感情はともかく、お前の思考は言葉を得るために役に立った」
「――だった?」
「ああ。星は、お前の働きに満足している」
先ほども聞いた言葉が繰り返される。革靴を鳴らしてなめらかに歩み寄ってきたカオスは、手を伸ばしてヴィンセントの胸元に触れた。ヴィンセントの中からふわりと白く丸い光が現れ、カオスの手のひらに収まる。
「そら、迎えが来るぞ。――しばしの別れだ、ヴィンセント・ヴァレンタイン」
立ち尽くすヴィンセントに、カオスがひらりと手を振った。とたん、急速に周囲の全てが薄れていく。
「星が果てる時、また会おう」
どこか楽し気な声を最後に、意識が暗転する。
***
ヴィンセントは目を覚ました。目に入ったのは一面の、透き通る青。
静まりかえる青いクリスタルの只中に、どうやら仰向けに転がっているようだった。
「ここ、は――今のは」
声はひどく掠れていた。何度か咳をして、軋む肋骨に思わず顔を顰める。
身体は重く、なかなか思い通りには動かなかった。あちこちに痛みと違和感はあるものの、欠損や傷の類はどうやらなさそうだと自己判断し息を吐く。身を起こすにはさらに多大な努力が必要だった。知らず呻きながらもヴィンセントは腕を突き、なんとかそこに座り込んだ。
まるで人工物のように平らな水晶と岩の床を、蒼く光る質量なき水が薄くひたひたと覆っている。ひとつの音も伴わず精神にさざめく、天然の魔晄泉。オメガとの衝突後どこかに落ちた自分は、ライフストリームによってここまで運ばれてきたのだろうか。
ヴィンセントは顔を上げ、おそらく目印にされたのであろう彼女を見た。クリスタルの中で目を閉じる、美しい彫像のような女性の姿――ルクレツィア・クレシェントを。
「ルクレツィア」
反応が返らないことはわかっていた。彼女の心は、ここにはない。
それでも。もはや伝わらないのだとしても、彼女に伝えたいと思うことはいくつもあった。
「……ありがとう。君にはずっと、助けられていたのだな」
オメガを巡る戦いの中で知ったいくつもの真実。カオスはヴィンセントの命を救うためにルクレツィアが埋め込んだのだということ。ヴィンセントがヴィンセントであるために必要だったエンシェントマテリアの存在。カオスとはそもそも何だったのか、彼女の研究がなければオメガを引き留めることはできなかっただろう。
彼女が遺した精神の断片は謝罪ばかりを繰り返していた。そのことだけは、ヴィンセントは惜しく思う。
謝る必要などないはずだ。彼女は彼女にできることを、彼女にしかできないことをやり遂げた。たとえそれが、世界が必要とした分に足りなかったのだとしても、彼女の責であろうはずがない。
「ヒトも、私も、まだ生きている。世界は続く。――だからルクレツィア、心配はいらない」
ヴィンセントは微笑んで、安らかに、と唇だけで呟いた。
ヴィンセントは重い身体を引きずるようにして立ち上がった。衣服は元通りだったが、着慣れたはずの赤いマントがなぜだかひどく鬱陶しく、ヴィンセントはガントレットの左手で手荒く裾を払う。
慎重に辺りを見回す。少し離れたところにケルベロスが落ちていた。銃把の飾りチェーンが千切れて失われており、なぜかその代わりと言わんばかりに傷だらけの携帯電話が鎮座している。
数歩を歩き、その二つを拾い上げた。ケルベロスはすぐにでも整備をしたいところだが、どこかの人里へ辿り着くまでは無理な話だろう。それでも、この僻地で徒手とならなかったことには感謝しかない。
もうひとつ。派手に外見がカスタマイズされた携帯電話は、手のひらの上でただ沈黙している。開いてみても画面は暗いままだったが、電源ボタンを押すと反応があった。期待はしていなかったが案外頑丈なのだろうか。ヴィンセントがそんなことを考えていると、明るく輝いた画面にすさまじい数の着信履歴とメールの受信報告が次々と表示され――ぷつんと切れるように、突然電源が落ちた。
もう一度電源ボタンを押してみても、もはや何の反応も示さない。壊れてしまったのか充電切れなのか見当がつかず、ヴィンセントはため息をついてそれをベルトのホルダーに放り込む。
無音の静寂に浸かっていた聴覚が突然役目を思い出したように、ほんの微かな騒音を捉えた。
ここ数年ですっかり聞き慣れたものとなった、まるで滑るような特有のエンジン音――魔晄でも石油でもないそれは、シエラ号でしかありえない。
まさかここに、降りるのだろうか。じっと耳を澄ませていると、一直線に近づいてきた騒音は遠ざかることなく、やはりこのカルデラの中に着陸したようだった。
なぜこのタイミングで所在を把握されているのかという疑問とともに、『迎えが来るぞ』というカオスの言葉が思い出され、ヴィンセントは無意識に己の胸に触れていた。
カオスに回収されたあの光と、別れを告げた言葉。夢の内容を思い起こせば、まるで――
ふ、と息を吐き、ヴィンセントは洞窟の外へと歩き出す。
まだ何も、確証はないのだ。推量に基づいて希望を抱くことは簡単で、それだけに後が恐ろしいのだと、彼は知りすぎるほどによく知っていた。
「どうして私が、迎えに来させられているのでしょうか」
ディープグラウンドの面影を脱ぎ去った少女が、青空の下、シエラ号を背景に拗ねて見せた。その光景は絵に描いたような平穏そのもので、ならば世界は“なんとかなった”のだろうと、ヴィンセントは心からの安堵を覚える。
シェルクの静かな話し方は、あの洞窟の静寂に慣れきってしまったヴィンセントのリハビリとして似合いのように思えた。
「私が今質問しても、二度手間になるだけでしょうから」
シェルクはそう言って、飛空艇へ帰り着くまでの間他愛のないことしか話そうとしなかった。なぜここがわかったのかとヴィンセントが聞くと、ルクレツィアの断片が教えてくれましたと言って微笑んだ。
「彼女に……会えましたか?」
「いいや」
ヴィンセントは首を振る。
「だが感謝を伝えてきた。それで充分だ」
その穏やかな表情に、シェルクはどきりと、胸を打たれたような気持ちになる。彼女は慌てて、取り繕うように話題を変えた。
「そ、そういえば、さきほど携帯電話の電源を入れましたか?」
「ん、ああ。わかるのか」
「一瞬だけですが、SNDに捉えられましたので」
「一瞬しか入らなかった。私にはわからん――任せてもいいだろうか」
「はい」
沈黙した携帯電話をシェルクに手渡し、ヴィンセントは足を止めてシエラ号を見上げた。この艇もそれなりに被害を受けていたような記憶があるが、今その痕跡は何も見受けられない。
ふと違和感を覚え、ヴィンセントはもう一度隣のシェルクを見た。記憶の中の彼女と体躯が変わっているわけではない。だがあの諦めきった兵士の面影は既になく、年相応の明るさと好奇心を備えた良い方向へと、明らかに性質が変化しているのが見てとれる。
「シェルク。……あれからどれくらい経った?」
「自覚がありませんでしたか」
シェルクはまっすぐにヴィンセントを見上げた。
「おかえりなさい、ヴィンセント・ヴァレンタイン。あなたはほぼ一年、行方不明だったんです」
そう告げられたヴィンセントの唖然とした顔に、シェルクは堪えきれず声を上げて笑った。硬直している彼の片腕をお構いなしに捕まえ、飛空艇のタラップへと誘う。
「だから、覚悟した方がいいですよ」
シェルクが出迎えに抜擢された理由の一つがこれだった。ヴィンセントは少女の見目をした彼女を、恐らく力づくでは振りほどかない。
万が一があっても決して彼を逃亡させず、飛空艇に乗せる。それが、シェルクに科された任務だった。
