「ヴィンセントさん!」
二人がシエラ号に入るなり、懐かしい特有のなまりとともに飛びついてきたのはケット・シーだ。その向こうで、腕を組んで立つシドがヴィンセントを頭のてっぺんから爪先までじっくりと検分している。無遠慮な視線はヴィンセントを案じるものだとわかっていても決して快くはなく、ヴィンセントは抗議を表してかつてのクラウドのように肩をすくめた。
矢継ぎ早に喋りながらよじ登ろうとしてくるふかふかのぬいぐるみをどうしたものかとヴィンセントが思案していると、検分に満足したのかすたすたと歩み寄ってきたシドがケット・シーの首根っこを掴んで引き離した。
「よぉおかえり、ヴィンセント。なんかヨロヨロしてんぞお前、ちゃんと五体満足だろうな?」
「身体中痛いが、欠けてはいないと思う。世話をかけた」
「世話はこれからだろ! 今までは心配かけてたんだよ、お前は。一年経ってるんだぞ、聞いたか?」
「そうらしいな。驚いた」
「ヴィン、ヴィンセントさーん」
シドの手元から情けない声が上がる。じたばたと暴れるケット・シーの猛アピールを無視できず、シドはそれをヴィンセントの胸元に押し付けた。
「ホンマのホンマに、ボクもマスターもずっと心配しとったんです! まさかオメガに突っ込むなんて……生きて戻ってくれて、ボクらホンマに」
赤いマントにぐりぐりと頭を押し付けながらケット・シーは喋り続ける。ぬいぐるみは泣けないが、それは紛れもない悲哀と安堵の籠る涙声だった。
「すまなかったな、心配をかけた」
「ぐす、とりあえず絶対エッジには戻ってもらいますからね!」
「わかったわかった」
「言質取られてんぞ……。ま、そもそもコレに乗っちまった以上は直通だけどな。シェルク、そいつをちゃんと見張っといてくれ」
30分後に離陸準備! とシドは一声叫びながら踵を返した。
見覚えのあるクルーたちが、ヴィンセントへ口々に挨拶を投げかけながらばたばたと配置に着く。
シェルクに促されてブリッジの片隅に座を占めたヴィンセントは、接続の切れたケット・シーを膝に乗せたまま、ぼんやりと周囲を眺めていた。そしてふと、隣に座ったシェルクに問いかける。
「シェルク、何か食べる物を持っていないか」
「あっ……ええと、これならあります」
シェルクが慌ててポーチから取り出したのはカロリーバーだ。兵士の生活からは解放されたはずなのになぜこんなレーションのようなものが出てくるのか。ヴィンセントに若干の非難と憂慮を込めた視線で見つめられ、シェルクは気まずく目をそらした。
「これは、その、非常食で……普段はちゃんと食べていますからご心配なく。何か飲み物をもらってきますね」
逃げるようにブリッジを出るシェルクを見送り、ヴィンセントはカロリーバーのパッケージを破った。味を期待するようなものではないと思っていたが、齧ってみると案外悪くない。瞬く間に食べ終えてから感じた物足りなさに、自分は空腹だったのかと遅まきながら自覚する。
「お待たせしました。まだ食べられそうですか?」
戻ってきたシェルクは飲み物とおぼしき数本のボトルのほかにも何かの袋を抱えていた。
ボトルをヴィンセントに押し付けてから、テーブルがないのでベンチの上に、袋の中身を並べ始めた。きちんとパッケージされたサンドイッチや焼き菓子といった軽食の類が、小山のように積みあがる。
「クルーの皆さんに持たされました。こちらの方がおいしいですから、どうぞ」
「さっきのも悪くはなかった」
「あれも見た目こそレーションですけど、中身は別物なので」
ブリッジは本来飲食禁止だが、遠巻きに二人を見守るクルーたちの視線は暖かい。責任者であるはずのシドに至っては、ヴィンセントが食べ物を要求したことで逆に安心した様子すらある。
彼らの好意にありがたく与ることにして、ヴィンセントは目の前のサンドイッチを手に取った。
何かを食べるのはずいぶんと久しぶりな気がする、とヴィンセントは思った。
魔獣を宿す人ならぬ身体も、活動する以上は補給が必要だ。それでも人より燃費が良いのは確かで、旅の間もその後も、空腹に悩まされるようなことはさほどなかったのだが。
あの祠で今日目覚めるまでの一年。自分は長く眠っていたのだろうか。棺の中に居た頃のように。
そもそもヴィンセントの最後の記憶は、相討ち覚悟でオメガに突っ込んでいったときのものだ。オメガに呑まれ消えてなくなるか、衝撃で身体がバラバラになるくらいは当然の予想で、もしそれを免れたとしてもあの高度から意識なく落ちれば結果は同じだろう。五体満足かとシドは聞いてきたが、満足であれば逆におかしいのではなかろうか。
(いや、満足では――ないのか?)
欠損は感じられないが、いまだに身体のあちこちは痛い。もう自分には基準がわからないが、普通の人間であれば動けないレベルなのかもしれない。かつてユフィがひどい筋肉痛で動けなくなった事件を思い出したヴィンセントは、往時の彼女と今の自分を比較しようと試み、諦めた。どうでもいいときにこそやたらと大げさなユフィの反応は、比較資料とするにはリアリティがなさすぎる。
「――……ト」
筋肉痛にケアルは効かないと誰かが言っていた気がするが、魔獣の回復能力もそうなのだろうか。この痛みが筋肉痛なのかはわからないが、逆に言えば魔獣の能力も底はわからないままだ。例えば自分がバラバラになったとして、パーツを集めるか細胞分裂するかで生き返るのか。死ねない身体だと思ってはいても、さすがに試したことはない。
「――……セント、おい、ヴィンセント!」
弾かれたように彼は目を覚ました。蒼白な顔をしたシドとシェルクが覗き込んでいる。
「……あんた、舵は」
「とっくに着陸してんだよ! 本当に大丈夫か?」
シドの剣幕に、ヴィンセントは目を瞬く。
「……寝ていた、か?」
「ある程度食べてからうとうとしだしたのは事実です。ただそこから一向に目覚めなかっただけで」
「食欲あるなら元気だと思った俺様がバカだったわ。――おい、ちょっと触るぞ」
「え、うわ」
シドの手がマントの襟に突っ込まれ、首元に触れた。
急所を晒す嫌な感覚に、ヴィンセントは身体が反射的に抵抗しようとするのをこらえる。
「お前額も腕も出てねぇんだから仕方ねぇだろ! やばいな、熱あるぞこれ」
「医療班の手配をしましょうか?」
「絶対嫌だ」
「こいつ病院関係は絶対脱走するぞ。せめてホテルにしとけ」
「わかりました」
「まぁ嫌だって言ってるうちはまだマシだ。世話はこれからだっつったのは俺だしな」
外堀が埋められていくような会話にヴィンセントは身震いした。決して熱のせいではない。
水飲め水、と押し付けられたボトルを素直に開封し、口を付けた。ぬるい水は肺腑に染みこむようだ。
「ストレッチャー……はたぶん嫌でしょうね。歩けますか?」
「問題ない」
「俺様が連れてく。引継ぎすっからちょっと待ってろ。まだ寝るなよ」
シドはクルーを呼び集め、てきぱきと指示を出し始める。
「……過保護すぎないか?」
「あなたは一年間生死不明だったんですよ、過保護にもなります。諦めてください」
ヴィンセントの独り言に、電話を耳に当てたままシェルクが応じた。
まだ艇を下りてすらいないのに、周囲はあまりにも騒がしく、目まぐるしく、鬱陶しい。しかし――これが世界だ。
失くしたくなかったものだ。守りたかったものだった。ヴィンセントは実感とともにひっそりとため息をつく。
ヴィンセント・ヴァレンタインはまた、戻ってきたのだ。
愛すべき、喧しい人間たちの世界に。
